メンバーの仕事紹介

HOME > メンバーの仕事紹介 >木村祥悟さん(足寄町・(株)木村建設)

自分の技術で独り立ちしたかった

木村祥悟さんは、現在木村建設の専務として社長である父親とともに忙しい日々を送っています。

もっとも、最初から父親の下で働こうと考えていたわけではありませんでした。
「子どもの頃から家づくりの仕事は身近に見ていましたが、親の仕事を継ごうと思っていたわけではなく、高校も普通科に進学しました」と木村さん。

卒業後、家の仕事を2〜3年手伝いながら進路をどうするか悩んでいた時、「手に職をつけたら独り立ちできる」と考え、京都の宮大工専門の工務店に見習いとして入りました。本格的な大工仕事の経験はありません。

宮大工を志したのは、故・西岡常一さんの著書を読んでからでした。北海道でも図面の寸法通りに機械で材料を切りそろえるプレカット材が普及してきており、大工の棟梁が墨付けする機会が減っていました。「木を見て適材適所に木を使い分けるという伝統的な技術が失われていくのでは?」と思ったのです。


足寄町に戻って担当したお寺
足寄町に戻って担当したお寺
上記お寺の一部アップ。宮大工の技術を生かした
上記お寺の一部アップ。宮大工の技術を生かした
宮大工から学んだ人生で大切なこと

宮大工と言っても技術と精神は伝統を受け継いでいますが、仕事の進め方は現代的です。また、仕事は京都だけでなく、全国あちこちでありました。石仏で有名な大分県の国東半島で仕事をしたことも。

こうした寺社仏閣の造りは、ふつうの家とはかなり勝手が違います。柱の太さは6寸(18cm)以上。北海道の住宅は通常は3寸5分(10.5cm)ですからずっと太いですね。ひとりではまず持てません。いつも2〜3人がかりで運んでいました。また、室内に柱が露出する真壁づくりのため、柱材に鋸を入れるときも緊張感がありました。雑な仕事をするとそれが全て見えてしまうからです。

ところが、棟梁は「見えるところを大事にするのは当たり前。見えないところまで大切にしろ」と言いました。文化財として代々受け継がれるもの。自分たちが仕事をした100年後にまた解体修理が行われるかもしれない。当然、見えないところまでバラバラにされることになります。そのとき恥ずかしい仕事をしているとすぐにばれるというのです。

棟梁、大工たちと寝食を共にすることで大工の間でチームワークを作っていきます。飯炊きは木村さんのような若い職人の役割。しかも、その後は大工道具の手入れなど、スケジュールはびっしり。寝るのは夜中の12時を回っていたそうです。行く先々で出会う人々、建物の違いに驚きながら、仕事を少しずつ覚えていきました。墨付け作業もできるようになり、伝統工法を肌で覚えていきました。

こうして、仕事を覚えていくと逆に棟梁たちから心配されたのが「お前はこれからどうするんだ?」ということでした。実家が工務店であることを皆知っています。これ以上仕事を続けていくと、次第に会社から離れられなくなります。「帰れるところがあるなら戻った方がいい」と年老いた棟梁に言われ、親や地元の大切さを改めて感じました。伝統工法で建てる住宅の墨付け、工事などを自分で担当した仕事を最後に、地元・足寄に戻る決心をします。


平屋住宅 羽目板の外装がアクセント
平屋住宅 羽目板の外装がアクセント
上記住宅の和室
上記住宅の和室
足寄の地で仕事を続ける

寺社仏閣の伝統工法は、北海道の住宅やお寺で直接使えるものではありません。断熱や気密処理といった北海道の厳しい風土に合う技術が必要になります。

それでも、京都で学んだ仕事への取り組み方、人との関わりは一生の財産になりました。そのときの縁を生かし、町内のお寺を改修するときはその京都の宮大工会社の協力を得て無事工事を終えることができました。

その後、新住協に加盟したことで高断熱・高気密の技術を学びました。もちろん、それまでも北海道で必要な断熱・気密技術は持っていましたが、新住協はさらに先を行っていました。

今後は「手作りを生かし、なるべく既製品を使わない家づくりに取り組みたい」と言います。さらに、地元に根ざす工務店として、牛舎、お店、お寺、住宅など、建築にかかわる仕事すべてに取り組みたいと考えています。木村さんの足寄での仕事は、まだまだこれからです。


軒を深くした住宅。薪が積んである
軒を深くした住宅。薪が積んである
上記住宅の内部。暖房は薪ストーブ
上記住宅の内部。暖房は薪ストーブ
木村建設 木村祥悟さん
木村祥悟さん
木村祥悟さん

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